底冷え

岩 粗削り

子供

時々自分は小学生か中学生かで止まっているかのように思える時がある。例えば地元で中学生が盛り上がった話をしているところを見たとき、自分はこの輪の中に自然に入れるかのような気持ちになった。例えば母校の小学校を見たとき、今からでも通っていた頃のようにランドセルを背負って友達と遊べる気がした。他には小・中学生の頃好きだったテレビ番組やゲームが当時の気持ちのまま好きでいることなど。

 

ここ数年は何かを追いかける気持ちになれない。何かを好きになることが難しい。新しいものに躊躇してしまう。それに対して昔好きだったものは私が疑いなく好きだった気持ちに反作用したように、こちらを親しみで包んでくれる気がする。全てを疑う不信に駆られることも少なくないが、その範囲は時間に限定されるんだと思った。

今は何か分かったような気がしている(分かったような気でいるのと、それを砕く無知を痛感する経験は何度も繰り返す)が、それも中途半端でどっちつかずの苦しみがある。それなら馬鹿でも何も知らなかった子供時代に戻りたいと思うこともある。子供時代はこうした何かしら最後の砦のような輝かしく誇りじみたものがある。とは言っても客観的に見れば過去の自分はかなり自分勝手で友達を振り回していたからそれを輝かしく思うのは利己的だ。

なぜ自分が子供時代の振る舞いを一瞬でできるような気になれるのか、もしかしてそれ以来茫然自失で生きているのかよくわからない。とにかく子供時代に囚われている。もっと言えば子供の社会に、親の庇護下の立場に、子供の価値観に。

大人になり損なった。過去の輝かしさを失ったことを認められずにいる。

ということを東京フレンドパークを見て考えました