底冷え

岩 粗削り

過去の記事_2020/-/-

タイトル:?

 

最近特に自分の中に複数の人格が存在するような感覚が頻繁にある。単に社会の外と内といった役割で人格が異なるよりは、理性と欲望といったもっと本質的な部分から異なっているように感じられる。理性と欲望と分けること自体は誰でも受け入れやすいとは思うが、ここで私が持つ違和感として挙げたいのは、それぞれに個としての人格を持っているかのような感覚があることだ。

例えば「欲望」は自分の持つ人格の中で最も外界に対する反応が早い上に強い。それゆえに自分の本質に最も近く、偽れなさも強い。まるでわがままで素直な子供のよう。私は他の人間とこういった話をほとんどしたことがないので確証は無いが、この部分は人一倍扱いづらいだろうと思っている。実際にこだわる事柄によっては精神的に打ちのめされたことがある。幼少期の自分の姿(だと思っている)を取っている。

普段視界を担っている「理性」は自己像と最も近い。つまりこの部分(理想像)が自分だと思っていることが多い。自己診断をする時はこの部分と照らし合わせて答えている。しかし欲望の部分にいつも後手後手に回り負けてばかりである。それというのも「欲望」は最も反応が早いと書いたが、「理性」はまさにそれを抑制するために経験的に形成したものだからかもしれない。一方でほぼ成長や学習しない欲望に対し理性は経験や理論を学習することで、自分において最も重要である納得という段階を探すことが出来る。

ところで、これらは何目線で書かれているんだろう

 

ひとまず頻度の高さから大きく分けてこの二つを人格とする。この二つが別にあるように感じられる場面を挙げると、まず一つはどちらかの主張が圧倒的に強くなったときである。一方がかき消える場合もあるが、ある程度(客観視できるほどの?)冷静さを取り戻せばそれに対抗するために同じく大声で主張する。こうして全く別の意見が対立した状態で現れたときに人格が複数あるように感じる。「大声で」と表現したが、まさにその言葉には声色といえるものがある。

光の三原色では白が複数の色が重なることでそう見えている。

こういった文章を書くこと自体が原因になっている?