いろいろ疑問がある。
人の認識について、シニフィアンとシニフィエ、共感について、感慨について、など
疑問を持たない時間はほぼなく、それについて考えているから自分の中でぽっと回答が浮かぶことも習慣のうちになっている。だから環境音のように聞き逃してしまうこともよくある。
何年か前まではそれを言葉にしたいものと思いつつ、試みはしなかった。言葉にしたらなんでもないことだと分かることを避けたかったのか、あえて逃すことに少し危うい刺激があったからなのか、分からない。
最近は言葉にするようになってきた。言葉にしたら先に進めたり、その履歴が残るのがメリットに思える。
しかしブログを書くようになったということがまだ言葉をこぼしていることを示している。もどかしい。こんなことをしたって一生完遂できたと思えることは無いだろう。そうは言っても生きている上では全て対処療法なんだから仕方ない。
つまり果てない努力なわけだが、これは自分の性質では珍しい。自分の性質で多くを占める方向のように、言葉に残す試みのアンチももちろんある。というより全てのアンチの派生だから言い訳じみてはいる。
ああ書けば書くほど書いたものと差別化された書かなかったものが私を嫌な気持ちにさせる
対処療法とは言いがたい
不満足はきっとここが根源ではなく、寂しさからで、むしろ言葉に残すことが対処療法だったんじゃないか