底冷え

岩 粗削り

透明な絵の具は無い

自分が当然だと思っていることが何かをきっかけに浮き彫りになる経験は誰しも少なからずあると思う。差を以てはじめて見ることができる、人間の認知機能の幼さをその度に恥ずかしく思う。人間にとって、差がなければ無いと同じなのだ。しかしそこに何かあるのは事実だ(人間の認知機能を考えた時、「ある」ように思われるだけで本当は無いかもしれないといった議論はここではせずにおく)。あるのに無い状態、これはガラスと似ていないだろうか?見て分からないが触ってはじめて分かるところが、まさに差異を以て認識できることに対応している風に見える。

この現象を経験として思い起こすとき、自分の性格や特性が明らかになった経験が引き出されることが多いかもしれない。しかし今回私が書こうと思ったのは思考のことだ。私にとって思考は川のように常に流れている。思考というからには何か言葉にして考えているのだが、次の一瞬には忘れていることも多いため、「あった」ものが「無くなって」しまう現象が起こる。不思議なのだが無くなったあとでも何を考えていたかを感覚的に(物事の話題のジャンル、大雑把に言えば喜怒哀楽など)だけ覚えていて、それが「さっきこんなこと考えてたな」と引き出す取っ手のような役割を果たしている。しかし引き出そうとしたとして無くなってしまったものなので、思い出すという手順が必要になってしまう。

さっき考えていたことが見えなくなってしまった…が、感覚的に言葉が操れそうな気がする。こんな感覚になった時は透明な絵の具を手に取っている。実際には筆を持った手の形のまま書くような仕草をしているのだろう。とにかく、書ける気がするのに書けないという感覚である。

はじめにガラスと例えたが、ガラスはそもそも存在するが見えないものであり、透明な絵の具は存在したが無くなったものを取り出す時のエラーのようなものという例えである。

言葉が溢れるという言葉を長々と説明した文章だった。