底冷え

岩 粗削り

一瞬、恐ろしい感覚にとらわれた。届いたばかりの太宰治全集を読んでいた時に起こった。読んでいた本が太宰治であることが重要ではないことは確かで、その本が三十年ほど前の古本に相応しい古さを持っていたことが関係していそうだと思った。

小学校の図書室にはボロボロになるまで読まれた本も多くあり、そうまでならなくともそうした本を読むことが多かった過去を思い出された。古本を買うことに抵抗がないのはこのためだとその時気付いた。

本を読んでいる最中にその程度のことは考えていたが、こんな連想は止まることがなく、読書と並行して行われた。連想は進み、続いて小学生の頃が引き出された。教科書に載せられた一部分だけ引用された本と、その雰囲気と、一緒にその頃の学校の雰囲気も思い出されてきた。私の小・中学生時代には何か特別なものがあり、思い出す際には変な感情?か感覚?が時々起こる。この時はかなり強かったんだと思う、でもそれだけでない初めて覚える感覚がした。それが恐ろしい感覚だった。孤独とも喪失とも違う、何かに気付いたような感じだった。それが何かわからないのにその衝撃性を理解している感じだった。数秒後のそれがだいぶ引いた時ではあるが言葉にされたものとして「子供の頃の世界観に突然飛んだ、義務さえも何も無い」というものが残った。もっとも、これが勘違いでこれを理由にして読書中に起こった連想を根拠にしてしまっている可能性もある。ただその言葉から感覚を遡るに、「世界が全てクレヨンで描かれたもので、プレイヤーは自分一人」というものだったんじゃないかと思う。

世界観の変化は怖い。思考実験の哲学的ゾンビを考える時に起こる感覚と同じだと思ってもらっていいと思う。今は戻ったが義務すらないことに恐怖を覚える自分をはじめて知ったし、それを擬似的な経験を以ってできたのは思えば貴重かもと思った。そんな世界観でしか生きられなくなった人のことを考えるととても気の毒になった。

 

追記:連想がきっかけになったと仮定して、連想された諸々が起こす不思議な感覚がついに大きな感覚を引き起こしたんだと考えると少しおもしろい。感覚が果てた、と言葉にできる。伴ったのは快感ではなかったけど