底冷え

岩 粗削り

純粋な死の希求

特にある夢を見たときによく起こるのだが、純粋な死の希求に取り憑かれることがある。将来が不安だとか今に希望が持てないだとかそうした状態の解決策として死を求めるのではない。取り憑かれているとき死は魅力あるもの、心地いいものとして写り、遊園地のジェットコースターに乗りたいといったような欲望のジャンルに入る。未知の体験に対して好奇心が掻き立てられていると言えば理解がされやすいだろうか。

しかしジェットコースターに乗りたい欲望にはない異常さがある。「取り憑かれる」と表現したように、その間は「死にたい、どうやって死のうかな、こんな死に方はいいな」と思考がそればかりになってしまう。誰かに銃で撃たれたり剣で突き刺されたり首を絞められたりといった妄想を絶えず行う。胸が高鳴ってきて全身がくすぐったくなる。そこには自分の死が目の前に感じることの快楽がある。

音楽アーティストのきくおさんの楽曲の中に「死ぬのが気持ちよかった」、「気持ちいい夢を見た」という歌詞がある。他に「幸福な死を」では恋人(?)の相手の首を絞めて「気持ちいい?」と聞く描写がある。他の楽曲も曲調も相まってきっと自分の持つものと同じものが表現されていると思っている。ちなみにきくおさんの楽曲を聴く前から純粋な死の希求の感覚はあったので、楽曲が自分の深い希死念慮を支えたわけではない。むしろきくおさんを知ったとき自分と同じ感覚を恐らく持っている人だとして何か喜ばしいものを感じた。(死のシチュエーションが快のカテゴリに入ったのは5歳頃だと記憶している。その頃には戦隊ヒーローか何かの死のシーンをごっこ遊びでよく再現していた。なぜそうなったのかは自分でも分からない。)

 

冒頭の「ある夢」とは容易に想像できるだろうが恐怖が伴わない爽快感すらある死の夢である。ちなみに恐怖や悔恨が伴う死の夢もあり、それはそれで起きたときも同じように引きずる。今回の夢はライトセーバーで相手と戦って負けたというものだった。隙を突かれ首を斬られて負けたのだが、その瞬間強者に出会えた感覚が駆け巡り、そのまま崩れ落ちた。この「強者に出会えた感覚」が死をいいものにさせた。

希死念慮が酷い時期もこうした夢を見たので、この希死念慮は現実の不安などがトリガーになったものなのか、夢によるものなのかがはっきり区別できないことがよくあった。希死念慮が無いときにその夢を見たことで意識が死にフォーカスされ、快楽目的であった死がいつのまにか現実の不安に突きつけるものになったこともよくあった。そして涙が出るまでに至ることもある。今回はそのどちらでもなく、ただただ死の欲望に取り憑かれたものだった。